TOP > Site map > FE聖戦の系譜 > 創作小説

刻印
Tear


 最も美しい死に方は何か、と問うた男がいる。
「さぁ……戦場で散ることか?」
 という答えに、その男はこう答えた。
「凍死だ。まさに生きているのと変わらぬ状態で死ねるそうな。まるで眠っているように見え、死ぬ時も、眠るように安らかだそうだぞ」
 なんて志の低い死に方だ、と思ったものだ。
 だがしかし。
 今現在、その状態に陥っている本人としては、そんな昔のことをつらつらと思い起こすくらいしかできないのが、歯痒い。
 どうしてこんな事態に陥ってしまったのか、彼は再検討を試みた。
 かの質問を問うた男が――実は彼の兄なのだが――妻帯することが決まった時、それまで均衡を保ってきた二頭政治にひびが入る音を、聞いたような気がした。跡継ぎがどうのという話が出ない、あるいは二人の子が――つまり『二頭』が夫婦である場合には、共同政治というものは強固この上ない。だが、均衡が崩れると脆いというのもまた、共同政治の特徴と言えた。
 もともと、政治権力の頂点、というのは自分の柄に合わないと思っていた。
 せっかく平穏無事に日々が送れるようになったものを、また戦禍に落とすのも嫌だった。
 何より、あの兄に嫁いでくれるという奇特な人物は、また現れてくれるとは限らないのである。今を逃してしまえば、あるいは兄は、一生結婚せずに終わってしまうかも知れない、という危惧があった。
 と言うわけで、彼は誰に相談することもなく、さっさと出奔を決め込んだ。公職に就いている間に多少の備蓄はあった。二、三年は働かずとも困らぬほどだ。問題は、追っ手がかからぬ土地へ逃げられるか、ということ。
 最初、慣れた土地であるイザークへ行こうかと思った。だが、イザークにはあまりに思い出が多すぎた。今やグランベル王妃になり仰せた少女の面影が、あの土地のあちこちに残っている。そう思うと、かの聖戦で歩いた土地には行きたくなくなってしまった。
 行ったことのない土地と言えば、アグストリア、ヴェルダン、シレジアくらいのものか。そこで、よりにもよってシレジアを選んだからこそ、今の状況があるのである。近場を選んでしまったのが、意外な仇になってしまった。
 ――眠い……。
 これが凍死の前兆というものなら、なるほど、眠気が緩やかに襲ってきて、確かに気持ちがいい……かも知れない。眠ってしまえば、おそらく目覚めは来ないだろう。
 ――それもまた、おれらしい死に方かも知れないな。
 自嘲の笑みが零れる。冷たい雪がそうとは感じられず、彼は空を仰ぐように身体を転がした。灰褐色の空から、いくつもの雪が降り注ぐ。その様は、まるで自分が天に昇るような錯覚を引き起こした。
 雪片の中に、ひとひら、柔らかなものが混じった。だが、彼はそれに気づかず、引き落とされる感覚に身を委ねた。

 行かなければならない、と男は言った。
 行かないで、と女が応える。
 行かないで。どうしても行くというのならば、どうぞ連れて行って。
 それはできない、と男が苦い声で言う。
 俺はきっと戻ってくる。それまで、ここで待っていてくれ。頼む。
 嫌よ。行かないで、行かないで……。
 行かなければならないんだ。この痕にかけて。
 この身に流れる血にかけて、血族の犯した罪を見定める義務がある。
 血って何? その痕が何だと言うの?
 その痕があなたを連れて行ってしまう。
 行かないで。
 わたしは、あなたの――。

 ぼそぼそという声が、彼を微睡みの淵から引き上げた。もう少しこのままでいたい、という彼の希望を無視し、意識はぐんぐん覚醒していく。
 彼の上が、翳った。
「気がついたかい?」
 穏やかな深い声。ゆっくりとした口調。
「気分は」
「……悪くは、ねぇよ」
「それは良かった」
 視界がだんだんと明るく、はっきりしたものに変わっていく。自分を見下ろしているのは、中年の男だった。自分の親くらいの歳であろうか。緑の髪と瞳をした、典型的シレジア人。
 ――何処かで会ったろうか。
 ぼんやりした記憶の向こう側で誰かの影が揺れたが、それが誰であるのか判らない。男は安心させるように笑うと、彼の視界から消えた。
「イーネ、もう大丈夫だろう。拾ってきた責任は果たすように」
「はい、ヴィダル様」
 ――おいおい。犬や猫とは違うだろうが。
 その言われ様に甚だ不満のあった彼だが、どうやら凍死寸前のところを助けられたのは間違いないだろう。文句を言うのは、礼の後にすべきだと思った。
 彼の視界に、一人の少女が現れた。自分とほど近い年齢の少女で、不思議な色合いの瞳と髪をしていた。青とも緑ともつかぬ、混じり合った不思議な色。それが、シレジア人に多い真っ白な顔を縁取り、ますます印象の強いものにしていた。
 ――兄貴なら、詩の一節でも歌い上げるかな。
「あんたが、助けてくれたのか」
「助けたくて助けたのではないわ」
 その不思議な色で、冴え渡る冷たい視線で、じっと彼を見下ろしていた。淡々と、薄い唇を動かす。
「こんな季節に、あんな装備でシレジアを渡ろうだなんて、どうかしてる。バカのすることだもの。バカを助けて冬を越せるほど、シレジアは甘い所じゃない」
 思わず、彼は身を起こした。少々ふらつくような感覚があったのは、長く寝ていた所為だろう。
「だったら、何で助けた?」
「訊きたいことがあったからよ」
 事も無げに応える。少女は手近の椅子を引きずって、彼の横たわる寝台の脇に置いた。
「見て」
 少女は、おもむろに自分の襟元に手を伸ばす。ひとつふたつと留め具を外していくのを見て、彼は慌てて目を逸らした。
「おい……何の真似――」
「いいから、見て」
 おそるおそる視線を戻して、彼は己の目を疑った。つい、まじまじと見つめてしまう。
 シレジアの新雪のように、真っ白な肌だった。はだけられた少女の胸元――その真ん中辺りに、ぼんやりと痣のようなものがあった。一見すればただの痣のようにしか見えない。だがそれは、血族が見ればそれとすぐに判るものだった。
「それは……」
「そうよ。あなたの手首にあるのと同じ」
 少女はそっと留め具を戻した。彼は、はっと我に返って、急いで明後日の方向に目を向けた。
 ――何で……何でシレジアの女の子に、ネールの聖痕があるんだ……?
「これ、一体何なの?」
 彼が視線を戻した先で、少女は胸に拳を押し当てていた。切羽詰まった視線を、彼に注いでいる。
「教えて。あなたはどうして同じ痣を持ってるの? この痣は何なの? 悪魔の印って、本当なの?」
「悪魔の印?」
 耳慣れない単語に、彼は首を傾げた。あれは聖痕だ、間違いない。聖なる印、神の血の証と呼ばれることはあっても、悪魔の印などとは聞いたことがない。
「悪魔の印って、何だよ」
 少女は、唇を噛んだ。心持ち顔を俯かせる。
「母さんが、そう言ったの。『悪魔の印だ』って。『お前も遠くに行くんだろう』って。……そうして、あたしを殺そうとしたの」
「何だって?」
 少女は顔を上げた。先刻よりも、もっと追いつめられたような眼で、彼を見据えた。
「教えてよ。これは何なの? 母さん、これがあたしに現れたら、気が狂ってしまったわ。あたしを殺そうとして、そうして死んでしまった。父さんにも同じものがあったって。父さんみたいに行ってしまうからって!
 これは本当に悪魔の印なの? どうしてあなたも同じものを持っているの!?」
 叫ぶ少女の瞳から、涙が落ちた。彼は呆然としてしまい、それを拭ってやることすら思いつかない。
 この子の身の上に、一体何があったというのか。
 ネールの聖痕が、悪魔の印……?
 一体、シレジアでは何があったのだろう。

 彼は、旅が出来るようになるまで、この村に留まることにした。イーネが「拾った上の責任」というものを振り翳してくるので、何も言えなくなってしまったのである。
 小さな村だ。噂など、ぱっと広まるものらしい。彼の治療に来てくれたシターが聞くとはなしに語ってくれたところによると、次のようなことらしい。
 ここはイザークとシレジアの国境にほど近い、ドゥナティスという村。最初に会った男はヴィダルと言い、この村の長であるという。かつての解放戦争で、指導者として全軍の先頭に立ったのだと言うが、今は息子に全権を譲り、安穏と隠居生活なのだとか。
 この家の主でもある、あの少女の名はイーネ。母親は天馬騎士で、彼女も同じ道を歩んでいるのだという。父親は誰か、わからないらしい。何でも、この地に駐留していたある軍の騎士であったそうだが、祖国へと行ったきり、とうとう戻って来なかったのだとか。
 それから少しずつイーネの母親は心を病み、ある時、娘を殺そうとした。止めに入った母親の兄(イーネにとってみれば伯父に当たる人物だ)が目を離した隙に、母親は自害を遂げてしまった。子供への悪影響を考えた伯父は、知人のいるこのドゥナティスに預けていったのだという。その伯父も、先の解放戦争で命を落とし、イーネは天涯孤独の身の上になった……。
「まぁ、この村に天涯孤独な人は多いからね。そう珍しい話じゃないのだけれども」
 そうシスターは締めくくった。さりとて、醜聞となるには充分な話だ。
 彼は、イーネの言葉とシスターの話を合わせ、いろいろと考えてみた。
 ここにいた軍隊とやらに、ドズルの血縁の男がいたのだろう。その男は、天馬騎士と恋をして、イーネをもうけた。だが、何か事情があってこの地を離れ、そして戻って来なくなった。母親は、イーネだけを頼りに生きていたのだろう。そこへ、夫にあったものと同じ印を見つけてしまう。夫のように離れていってしまうと……そう錯覚しても、おかしくないのかも知れない。
 彼は、じっと自分の手首の内側を見つめた。少女より、若干だが濃い、ネールの聖痕。イーネがこれを見つけた時の衝撃たるや、どんなものであったのか。
 ドズルの血は、自分には重いものだと思っていた。
 これを機にとばかり、さっさと兄貴に押しつけてきてしまったけれど……。
 運命は、まるでそれを嘲笑うかのように、彼の前に血の業を見せつけている。
「悪魔の印、か……」
 とんとん、と元気の良いノックが響いた。
「あ、起きてたの」
「そういつまでも寝てられっかよ」
 彼の言葉に、イーネは明るく笑った。
「それもそうね。どう? 食べられそう?」
「ああ」
 頷いて部屋を出て行きかける。彼は、ふと思いついて少女を呼び止めた。
「イーネ」
 少女は立ち止まり、肩ごしに半身を振り向かせた。
「なに?」
「お前、おれのことは何にも訊かないのな」
 僅かに首を傾げる。
「名前のことも、何も。痣の事しか訊かないな」
「言いたいなら訊くけど?」
 それはつまり、興味がないということで。
 苦笑するしかない気持ちになりながら、彼は言った。
「名前はヨハルヴァ。生まれはグランベル」
「ふぅん……ヨハルヴァっていうの。悪くない名前ね」
 少女は笑みを閃かせると、何か持ってくるわね、と扉の向こうに消えた。
 ヨハルヴァは、まだ言えないでいる。
 この痣が単なる痣などではなく、聖戦士の血を表す聖痕であること。
 おそらく彼女の父という騎士が、自分と同じ血族だったであろう事を。
 何故、言えないのか。
 それはヨハルヴァ本人にも解らなかった。

 身体が少しずつ動くようになってくると、どうにもじっとしていられなかった。ここは開拓村であるというので、斧を振るって開拓事業に力を貸す。元が斧使いネールの末裔だ。普通の民とは比べるべくもない怪力を有し、巧みに斧を操ることが出来る。たちまち、ヨハルヴァは珍重されるようになった。
 そんな中で、イーネはあまり変わらなかった。
 同じ屋根の下にいるというのに、寝たきりで動けなかった頃と大差のない扱いを受ければ、もしかして男として見られていないんじゃないんだろうかという情けなさも募ったりする。
 母親に殺されかけた娘。
 そんな翳りなど、彼女の何処にも見られなかった。だから余計に、あのことが頭から離れない。
 白い肌に、まるで刻印のように残されている聖痕――。あれから、二度と見ることのないそれを、ヨハルヴァはずっと気にかけている。
 聖痕とは、結局のところ何なのだろう。
 己が手首に浮かぶそれを、眺める時間が自然と増えたことに、誰より本人が気づかなかった。
 血の証。
 神の徴。
 ――神など、本当はいやしないのに。
 イーネの母親は、聖痕を見て心を病んだ。
 その理由など、自分には解らない。
 だが。
 人の心を傷つけるものが、殺すものがあるのなら。その引き金が聖痕であったのなら。
 その意味とは、何なのだろう。
 聖痕のある意味とは、何なのだろう。

 そんなある日のこと。
 いつもは村の奥に引きこもっているヴィダルが、珍しく集会場に姿を見せた。先触れがあったらしい。彼の息子が来るのだという。
「ヴィダル様のご子息は、王城付きの魔導士なのよ」
 訳がわからずにぼうっとしていたヨハルヴァに、イーネがそう囁いた。ヴィダルくらいの歳で子供というと……自分達くらいだろうか。
 シレジアにおける解放戦争の旗手であったヴィダルとその息子は、元々がこの村の出身なのだそうだ。時折、里帰りを兼ねて父の元へ帰ってくるのだとか。
「その歳になっても、親離れ子離れができてねぇのか」
 思ったことがそのまま口から出ていたらしい。勢い良く、細い踵が振り下ろされた。
「痛ぇっ!」
「滅多なことは言わない方がいいわよ。ドゥナティスの英雄なんだから」
 他はどうあれ、イーネの前では注意しようと心に決めたヨハルヴァである。
 さて、午後を回った頃に、件の魔導士が村へとやって来た。天馬騎士に乗せられて現れた少年を、ヨハルヴァは何処かで見たように思った。
「あれ……?」
 少年は視線を流し、ふとヨハルヴァの上で止めた。誰の所に行くよりも先に、ヨハルヴァに歩み寄る。
「……ヨハルヴァ、卿?」
「そうだけど……」
「やっぱり!」
 言うなり、少年はヨハルヴァの腕を掴んだ。ぐいぐいと引っ張る。
「こんな所で何をやっているんですか。グランベルでは大変な……ああ、そんなことより、ヨハン卿が心配していましたよ。すぐにドズルにお帰りになって――」
「待て待て待て!」
 危うくそのまま引きずられかけ、ヨハルヴァは必死の体でその腕を振り払った。相手は非力な魔導士であるというのに……自分の力は、それ程までに落ちているのか。
「……あんた、誰だ?」
 彼はきょとんと目を瞬かせ、じっとヨハルヴァを見つめた。
「私です、アミッドですよ。お忘れになりましたか」
 ――あ。
 そこまで言われれば、ヨハルヴァも思い出さざるを得ない。あの聖戦終結間際、シレジアからやって来た魔導士と天馬騎士が、戦列に加わった。そう……そうだ、あの時の魔導士だ。なるほど、ヴィダルに会った時の既視感は、彼に因るものか。
 納得すると同時に、アミッドの言葉が脳裡に閃いた。今、アミッドは何と言った?
「って……兄貴がおれを?」
「ええ、それはもう」
 アミッドが事も無げに応える。嘘だろ、とヨハルヴァは低く呻くしかなかった。あの兄が、自分を『心配して』探しているなど、到底信じられた話ではない。案外、嫁いできた義姉の言に因るものかも知れない。
「ヨハルヴァ、アミッド様と知り合いなの?」
 怪訝そうなイーネに、アミッドが説明しようと身体を向ける。慌てて、ヨハルヴァはそれを遮った。
「何でもない、何でも」
 わざとらしく声を大きくして、ヨハルヴァは羽交い締めにしたアミッドを覗き込んだ。
「まさか、おれ探してここに来たんでもないんだろ? 何か用があったんだろうが」
 そうだった、とアミッドは乱れた服を撫でつける。
「父上は?」
「あちらでお待ちです。フェミナ、あなたは馬を休めた方がいいわね」
 イーネが、アミッドと一緒に来た天馬騎士を厩舎へと連れていく。それを見送ってから、アミッドはヨハルヴァに目を向けた。
「イーネを御存知ですか」
「ご存知も何も、命の恩人」
 緑眼の魔導士は、特に返答しなかった。口元に手を当てるようにして、何か考え込んでいる。
「アミッド?」
「えっ? ……ああ、何でも……」
 言い淀み、彼は軽く頷いた。何かを決心したようだった。
「ヨハルヴァ卿、一緒に来てください。貴方の力が必要かも知れません」

 アミッドは王城の様子を伝える定期連絡と、セティ王からの親書を携えていた。その内容は、ヨハルヴァの与り知るところではない。
 彼に関係していたのは、アミッドが口頭で伝えた事。
「母が……?」
 同席するように求められたイーネこそ、この情報を受けるべき人物だった。
「母が、生きているんですか?」
 ヴィダルは目を伏せただけで、頷くでもなく、首を振るでもない。
「いろいろな事情があったが、君の母上は、君をとても愛されていた。病の末に君を殺そうとはしたが、それは本心ではない。万一にも君を害するようなことがあれば、それは彼女の心を完全に殺してしまうだろう。……離して育てるのが、二人の為だと判断されたのだ。伯父上を、恨んではいけない」
「恨んでなどいません。感謝こそすれ、恨むなんて……」
 そこまで言って、イーネは拳を握った。胸元に、痛いくらいに押しつける。
「会える、のですか?」
 ヴィダルはアミッドと目を見交わした。静かに、イーネを見つめる。
「余命幾許もないそうだ。会うのならば、今すぐにでも」
 イーネは泣きそうな顔になり、ぎゅうっと目を閉ざした。小刻みに震える肩を、ヨハルヴァは見ていられなかった。部屋の隅の方へ、視線を逸らす。
「……会いたい、です」
「ならば、すぐに準備をしなさい。アミッドとフェミナが案内をする」
 それから、とヴィダルはヨハルヴァに目を向けた。
「ついて行ってもらえますか」
「おれが?」
 ヴィダルは深く頷いた。
「貴方以外の何者も、その役を担えはしない」
 その意味が、ヨハルヴァには解らなかった。

 ――離して育てる、などと言っていたから、どんなに遠くかと思えば。
 ヨハルヴァは白い息の壁を突き破るようにして、歩を進めた。ザクソンの街に、イーネの母親が病身のままあるという。
 イーネは、道中無言のままだった。白い頬はますます白く、微かに青ざめているようにも、透き通るようにも感じられた。
 自分が、ここに連れてこられた理由は何だろう。
 ヨハルヴァは何度も自問したが、答えは得られなかった。
 ただ、解ることがひとつある。
 こんな状態のイーネを、ひとり放ってはおけない。
「あの家だ」
 アミッドが指し示す。街路を挟んだ向かい側に、こぢんまりとした家が見える。
「病が治った訳じゃない。もし万一のことがあったら……ヨハルヴァ卿」
「わかってる」
 言いながら、ヨハルヴァはイーネを窺った。唇を真っ白になるほどに噛みしめて。握られた拳は、どうしようもなく震えていた。
「会いに行くんだろ?」
 堅い頷きが返る。ヨハルヴァはいささか乱暴に、その手首を取った。

 そこは充分に暖められた部屋だった。寝台に上半身を起こしたその女性は、とてもイーネのような年頃の娘がいるとは思われぬ容貌で――まるで病が彼女の時を止めたように思えて、ヨハルヴァは何とも言えない気持ちになった。
「どちら様?」
 ゆっくりと、やわらかく尋ねられる。足が竦んだのか、イーネは動けないでいた。
「イーネ」
 とん、と軽く背を押す。イーネは二、三歩つんのめるように歩を進めてから、おそるおそる、母親に近づいていった。
「母さん」
 その呼びかけに、母親は笑顔のまま、不思議そうに首を傾げる。
「あたし、イーネよ。母さんに会いに来たの」
「イーネ? ……ああ、そうよ、イーネ。あの子は何処まで遊びに行ったのかしら。私の可愛いイーネ。ねぇ、何処かで見なかったかしら?」
 彼女はゆるやかな動作でヨハルヴァを見た。何処も何も、今、彼女の目の前にいるのがイーネ本人であるというのに。
「あんたの目の前にいるのが、イーネじゃないか」
 ヨハルヴァの言葉に、彼女は首を傾げるだけだ。業を煮やし、ヨハルヴァは彼女の肩を掴んだ。イーネが咄嗟に遮ろうとしたが、間に合わない。
「ちゃんと見ろよ! あんたの娘だろう!?」
「やめて! 母さんに乱暴しないで!」
 二人が眼前でもみあうのにも、彼女はさして反応しない。だが、ふと目を瞬かせると、堅い動作でヨハルヴァの腕を取った。不意の出来事に、思わず二人の動きが止まる。
「あなた……」
「え?」
 彼女の表情が、ふわりと明るくなった。
「ああ、そうよ。この痣……あなたは聖痕と言ったわ。あなたの血の証、あなたの証……帰って来てくれたのね」
 ――!
 ヨハルヴァは背筋がぞっと冷えたような気がした。……間違えて、いるんだ。戻らなかった恋人と、ヨハルヴァとを。
 ――あ……んのジジイ!
 ヴィダルの顔を思い浮かべ、ヨハルヴァは悪態をついた。貴方にしかできない役目? ああ、確かにそうだろうとも。このシレジアでネールの聖痕を持つ男など、そうはいないだろうからな!
「話したいことがたくさんあるわ。あなたの子が生まれたの。イーネというのよ。あなたと同じ徴を持って……」
 うっとりとした眼でヨハルヴァを見てから、彼女はすぅっと視線を薙いだ。イーネの上で留める。
「ああ……イーネ、こっちにいらっしゃいな。どうしたの? そんな顔をして。誰かに苛められたの?」
 みるみるうちに涙を溢れさせて、イーネは母親の膝に縋った。白い指が、不思議な色合いの髪を優しく撫でる。
「そんなに泣かないの。ほら、母さんが子守歌を歌ってあげる。さ、もう泣かないのよ」
 低く高く詠われる子守歌で。
 眠ったのは、イーネではなく彼女本人だった。

「……わかってて、やったんだろうが」
 イーネが落ち着くまで、しばらく足止めになった。苦々しいヨハルヴァの言葉を、アミッドは渋々ながらではあったが肯定した。
「もう、何もわからない状態でしたから」
 それでも、彼女の心には残っていたのだ。聖痕を持つ男のことが。
「それをきっかけにして、イーネのことを思い出してくれればと思ったのです。どうか、気を悪くしないでいただければ」
「おれはいい、おれは。……問題は、イーネだろうがよ」
 あんな母親を見せられるくらいならば、いっそ会わずにいた方が良かったのではないか?
 ヨハルヴァはそうとまで思った。ついてくるべきではなかった、とも。
「ヨハルヴァ卿」
 フェミナが、控えめに呼んだ。
「イーネが話をしたいと。来ていただけますか?」
 ヨハルヴァが予想していたのとは対照的に、イーネは明るい笑顔で彼を迎えた。痛々しいくらいの笑顔だった。
「……何で笑ってんだよ」
 ん? とイーネは首を傾げた。
「だって、母さんは父さんに会えたんだもの。すっごく幸せそうだった。あたしの事も思い出してくれたし……もう、いいの。会えないと思っていた人に会えたんだもの。もういいのよ」
「いいわけ、ないだろうが!」
 ヨハルヴァが怒鳴ると、イーネはきょとんと眼を瞬かせた。それにまた苛ついて、ヨハルヴァは声を張り上げる。
「あんな風に会って、良かったって言える訳がないんだよ! 恨み言のひとつも言ってやれば良かったんだ。そうすりゃ、少しは泣けただろうに!」
「ヨハルヴァ……」
「何で笑ってんだよ! 何で笑えるんだよ!? 泣きたいなら泣いちまえばいいんだ! どうして笑うんだよ!?」
 イーネは呆けたようにヨハルヴァを見ていたが、ややあって、透き通るような笑みを見せた。
「ありがとう、ヨハルヴァ」
「な、何だよ急に」
「だって、あたしの為に怒ってくれてるんでしょう?」
 イーネは、胸の前で指を組み合わせた。ちょうど聖痕のある場所に、押しつけるようにして。
「あたしは、もういいの。母さんの膝でいっぱい泣いたから、もう……。
 母さんは、きっと幸せな気持ちで逝ったの。ずっと待ってた父さんが帰ってきた夢を見て、本当に幸せな気持ちで死ねたんだと思う。だから、あたしは笑って見送ってあげなくちゃ。『あたしはもう大丈夫だから、心配しないで』って」
 にこ、と笑って。
「ヨハルヴァがいてくれて、良かった。あたしだけじゃ、母さんにあんな幸せそうな顔、させてあげられなかったもの」
 指を解くと、イーネはヨハルヴァの腕を取った。手首の内側、聖痕を指でなぞる。
「悪魔の印、なんて母さん言ったけれど……嘘ね。少なくともこれは、二人の人を幸せにしたわ」
 そう言って、イーネはくすりと笑ってヨハルヴァを見上げた。
「あなたに会えて良かった。この痣は、その証。あたしは絶対に忘れないわ」

 てっきりグランベルへ帰ると思われていたヨハルヴァだったが、意外にも本人は、このままシレジアに残ると言い出した。
「どうせ行く所もねぇし」
「そういうわけにはいかないですよ。ヨハン卿が――」
「おれが帰ったって、兄貴の邪魔になるだけだって。どうせ得意の格好付けなんだからよ」
 せめても居場所だけでも知らせた方が、と言うアミッドの主張も一蹴される。
 極秘裏に連絡を取るくらいのことはできそうだったが、アミッドはそれをせず、ヨハルヴァのしたいようにさせようと思った。ひとつには、彼が戻ることによって起きうるかも知れないドズルの内乱を予想できたからであり、もうひとつには――
「で、結局またうちに居座るの?」
「いいだろ、別に。用心棒代わりくらいにはなるぜ?」
「どうだか。頼りになるんだかならないんだか、わからないものね」
 他愛のない口論に暖かみを感じてしまうのは……自分の錯覚だろうか。
 アミッドは軽く頭を振ると、故郷の村を見晴るかした。
「行くよ、フェミナ」
「あ、うん。またね、イーネ」
 元気良く手を振って、フェミナはアミッドと並んで歩き出した。その光景を、イーネの半歩後ろで、ヨハルヴァが見送っている。
「さて、そろそろ日も落ちて寒くなったし、中に入るか」
「そうね」
 ここにいれば、少しは。
 ドズルの血というものが見えてくるかも知れない。
 名も知らぬイーネの父が、誰より、イーネ本人が。
「どうしたの? ぼんやりして」
「いや、何でも」
 聖痕が人を救うなら――。
 それは一体、何だろう?


update:1999.12.21/written by Onino Misumi

Background:Cloister Arts

TOP < Site map < FE聖戦の系譜 < 創作小説 > 往復書簡
>> メール >> 掲示板